大潟村について

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秋田県大潟村

八郎潟は北緯40度、東経140度の経緯度交会点(日本で唯一10度単位の経緯度交会点)を中心に、東西12km、南北27kmに広がり、総面積22,024haの滋賀県琵琶湖に次ぐ日本第2の広さを誇る湖でした。
湖は地形の変動により形成されたもので、船越水道を経て日本海へ通じる、海水と淡水が交じる半かん湖でした。古くからうたせ船による漁業、冬の間行われる氷下(こおりした)漁業といった風景が八郎潟の風物詩となっていて、70種以上の魚介類が棲む豊富な漁場でした。
 
八郎潟の開発計画は江戸時代から幾度も持ち上がりありましたが、財政やその他の事情により実施に至りませんでした。
再びその干拓計画が進められたのは昭和31年のことです。戦後の食糧不足を解消するために、国の事業として農地を増やす計画が進められました。日本の土木技術を結集し、またオランダの技術協力を得てついに八郎潟干拓事業計画が完成し、昭和32年に事業の着工となりました。幾多の困難、試行錯誤を重ねながらも工事は進み、昭和41年には干陸、引き続き「新農村建設事業団」の基幹工事が行われ、昭和52年3月に20年の歳月と約852億円を投じた大事業が完了しました。
八郎潟は17,239haの希望の大地へと生まれ変わったのです。

八郎潟の干拓

大潟村

八郎潟干拓により、湖底から生まれ変わった新生の大地に村がつくられることとなり、村名は全国から募集され、将来に大きな理想と躍進をこめて「大潟村」と命名されました。


こうして村は、1964年(昭和39)10月1日に秋田県で第69番目の自治体として名乗りをあげました。6世帯わずか14人の人口でのスタートでした。
全国各地からの入植希望者のなかから選抜された入植者は、干拓の目的である「日本農業のモデルとなるような生産および所得水準の高い農業経営を確立し、豊かで住みよい近代的な農村社会をつくる」ことを担ったパイオニアといえます。

安定した気候

平成5年(1993年)の記録的な冷夏による不作が原因となった全国的な米の不作の年においても大潟村では他の地方ほどの悪影響は免れ、全国へお米を供給し続けることが出来ました。
冬の寒さはもちろん厳しいですが、夏は夏らしい日差しがしっかり届いています。

 
大潟村は安定した気候
大潟村の肥沃な土壌

肥沃な土壌

「埋め立て」ではなく「干拓」ですから大潟村は湖の底に在ることになります。これまで八郎潟に流れ込む川からさまざまなミネラル分が湖底に堆積していました。大潟村の土地が通常の陸地よりも肥沃である理由です。